いつのまにか11月も終わりに近づきました。ということは、今年もあと一ヵ月を残すばかり…。
今年の大きな出来事のひとつに、3月16日の「吉本隆明氏の逝去」があります。
私は初めての詩集『渡月橋まで』を刊行するにあたり、吉本さんに帯を書いていただきました。その帯の文章は詩人としてのわたしの道を指し示してくださる、身に余るものでした。
ここに、その帯文を書いてみます。
「この優れた女流詩人は、まぎれもなく「若い現代詩」だ。「若い現代詩」も言葉を煮炊きする。調理場へゆかずに、いきなりその場でライターに火を付けるのだ。「若い現代詩」は言葉を遊ばせに街へ出る。いちばん存在感が濃くなったところで「橋」や「男」や「近親」たちのシャドウに出遭う。そんな窪みを探す。それは多く喪失するためのようにおもえる。この詩人が他者と出遭うのも別離するのも存在の節目のような処に、たまたまさしかかったときだ。そのとき「悲しい」こと「寂しい」こと「辛い」ことがある。だが「悲しい」ことを悲しんだり、「寂しい」ことを寂しがったり、「辛い」ことを辛がったりする語彙はこの「若い現代詩」には存在しない。その代わり、ときとして怖ろしい「業」の入墨を内股のあたりでチラチラさせることがある。それを垣間見たとき、わたしはこの詩人の思想をみたとおもう。読者におかれてもまた。」
この帯の文章をいま打ち込んでいてあらためて静かに沸き上がってきたおもいがありました。
この素晴らしい帯文章をいただいたために多くの出会いがあったわけですが、そのすべてを糧(光栄な出会いもありましたし、必要以上に抹殺されたこともありました)にして、やはりさらに詩人としての研鑽を積んでいかなければいけないということを自らに言い聞かせました。
そして、さらにおもうのは、吉本さんの書かれる言葉のかっこよさです。
「善へゆくにも悪へゆくにも絶対的なところまでゆかせない抑止が「煩悩」なのだ」(吉本隆明)
この言葉は、吉本さんの著書『親鸞論註』にあります。
その吉本隆明氏についてこれ以上の語り人はいないとわたしがおもうのが芹沢俊介氏です。
この12月1日(土)にその芹沢俊介氏の講演があります。日時や会場など、詳しいことは、ここをクリックしてください。
midnight poetry loungeの特別講演「宿業の思想を超えて−−親鸞と吉本隆明」というのがそのタイトルです。
一人でも多くの方のご来場をお待ちしています。当日、わたしは受付を担当しています。