白玉庵のいちにち

表千家茶道教室

黒田正玄十三代目のお話 最終章

という次第で、7月1日、川口で行われた夏期講習では黒田正玄十三代目の実物にお目にかかることができた。
ここまで、書いてくるのに実に二ヶ月以上の日々が流れている。しかし、黒田家の系譜を考えれば、たかだか二ヶ月?というわずかな時間ともいえなくもない。
「初代黒田正玄天正六年(一五七八)、若狭の国の黒田郡(現在の福井県)に生まれた。関ヶ原の戦いに西軍として従事して敗れたあと、剃髪して正玄と号し、大津に移って竹細工をなりわいとした。のち、京都の油小路二条に住み、小堀遠州の直弟子として、茶の湯の奥義を伝授される。遠州の推挙により、将軍家の柄杓師となり、三代将軍家光公の御用柄杓師として名を残した。」というふうなことを『黒田正玄茶杓の見かた』(淡交社)で読んだ。当日、十三代目からもうかがったが、この手の記述は、やはり書物で確認しながら記したほうがよいと判断。
要するに、一五七八年生まれの初代正玄から、およそ四〇〇年も続く黒田家の仕事を語るには、たかだか二ヶ月?という時間などなにほどのものでもない(?)のかもしれない。などと、こじつけたりしてみる。
川口でお話しされたことも、書物に書いてあるとしても、じきじきにお話しされるということに大きな意味があると思っているし、第一、その後、お茶杓を見るときの自分の気持ちが少し異なっているように思う。要するに、この茶杓に一生をかけてきた方々がいるということを、瞬間ちらっと思うことがあるのだ。
わたしは、先にも書いたとおり、やはり十代目の話が衝撃的であった。いわゆるオフレコみたいな話を、あのような公の場所で淡々と話されることにも驚いたが、まわりを見回しても、誰も微動だにしないし、隣のひとに語りかけるひとも見えなかった。その静謐さも衝撃的であった。そういうわたしも、ただ黙って、このような席でこのようなことを話すなんて…。と思ってひとりで動揺していただけなのだけれど。
公に生きる人とは、すべては明らかにして、なお、何事もなっかったかのような佇まいを保つことができる人なのか。一瞬の衒いも見せないところが、気に入った。
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茶杓つながりで書くと、利休作の「泪(なみだ)」という茶杓を一度見てみたい。
以下、徳川美術館名品紹介の紹介文を転載させていただきます。

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今更、わざわざ紹介する必要があるのかというくらい著名な茶杓である。恐らく、数ある茶杓の中でもこの「泪(なみだ)」ほど名が知られているものは他に無いのではないか。
 言うまでもなく、秀吉に切腹を命じられた千利休が最後の茶会の為に削り、そして使用した茶杓であり、譲り受けた古田織部が位牌代わりに拝む為に作ったという、茶杓が見えるよう長方形の窓があけられた黒漆塗の筒もまた有名である。
 茶杓古田織部切腹の後、徳川家康尾州徳川家と伝わっている。
 折角の名杓であるので、解説は西山松之助氏著の『茶杓百選』から一部抜粋して、かえさせて頂く。

 「茶杓は白竹の深樋の順樋で、櫂先はゆったりと曲げ、二重だめ。露はまことに整った円形。年を経て割れひびがある。櫂先の幅は中央が最も幅広で、シンメトリーに削りさげ中節上から急に狭め、中節は高く、節裏は典型的蟻腰・雉子股。節下は下三分の二を切り止めと同じ0.42センチ幅のきびしい平行線で仕上げ、切止めは、裏七、表三の厳正鋭利な両刀切止めである。白竹は無傷で全体に漆が拭いてある。このような「泪」は、一見ごく平凡で無性格で単調でありながら、端正でやさしく、わざとらしさがなく、ゆったりとしていて、清らかで、しかも凛としていて厳然たる存在感があたりを払う気魄を見せ、品格の高い名杓である。」『茶杓百選』(淡交社 1991年) 80頁