白玉庵のいちにち

表千家茶道教室

じゅうぶん      

じゅうぶん      山本かずこ


 お茶のお稽古が終わって帰る私を、先生が玄関先まで見送ってくださった。上がり框の所で指をついてご挨拶される時もあるけれど、その日は、私と一緒に外に出られて、何げない感じで、来週は貝母が咲いているかしら、と言われた。
「貝母」と書いて、「ばいも」と読む。先生はそう言われると、ほら、ここにあるでしょう。そおっと、手を伸ばしたところには、まだ硬そうな蕾がポッツと付いていた。三月ともなると、だんだん日が延びてくるものだから、夕暮れ時でも、そのポッツが見えるのである。冬場だとこんなふうにはいかない。それに、冬場だと、寒いのと暗いのとで、気持ちがどこか急いてしまい、一日の終わり近くなって、花の成長を確かめるなどというゆったりしたことは、後回しになってしまうような気がする。来週は、貝母を使おうと思っているんですよ。先生はそう言いながら、微笑まれた。
 そして一週間が経った。今日の花入れは益子焼きの「蹲(うずくまる)」である。
 お花は、卜半(ぼくはん)と、白玉。それから、貝母を活けました。そう先生が説明されたので、いっそう目を凝らした。あの時、蕾だった花が咲いたのかしら。それを確かめるように、床の間の一点をじいぃと見つめていると、その視線に気づかれたのか、先生が言った。まだ、蕾なんですけれど。
 一週間前の硬い蕾を思い出した。あれだけ硬かったら、春になって、少しぐらい空気が暖かくなっても、そんなに容易には開かないものなのか、と思った。
 けれども、この日のお茶室で、そんなことを思っている人はいないだろう。私にしたところで、先週お稽古の帰りに先生が、来週は貝母を使おうと思っていると予告されなければ、先生が口にされた「まだ 蕾」という言葉にそんなに反応したりしないはずだ。そうか、「まだ、蕾なのか」と私は思ったけれども、自然は、そうした人間の気持ちとは無関係に生きている。だから、「まだ、蕾」という気持ちは人間だけのものである。蕾は蕾をじゅうぶん生きて、花は花をじゅうぶん生きる。それだけを淡々と繰り返しているのだ。
 もう、じゅうぶんちょうだいいたしました。
 お茶の席では、お茶をもう一服いかがでしょうか、とたずねられたとき、そう答えることになっている。いわゆる決まりごとではあるけれど、私はこの「じゅうぶん」という言葉が好きである。よその家で、おもてなしを受けているときなど、先方から頃合いを見計らって、珈琲のお替わりなどいかがでしょうか、とたずねられることがある。
 以前なら、「いいえ、いいえ」と慌てて言ってみたり、手を顔の前で激しく左右に振ってみたりして、もうこれ以上は結構でございます、という気持ちを咄嗟に表したりしていたのだけれど、近頃はちょうどいい言葉が私にはあるから、にっこりしながら、それを言う。
 もう、じゅうぶんいただきました。
 この答えでじゅうぶんなのである。
 もう、じゅうぶんいただきました。
 決して、それ以上は欲しがらない、この言葉の美しさは、千利休の先人、村田珠光の「足らずして足れりとなすべし」ことの美しさにつながる。
 それにしても、と思う。少し前の時代の女性作家の小説にはよく花が登場している。花が彼女たちの作品の中で重要な位置を占めているのである。
 中里恒子さんには「貝母の花」という作品があって、そこに貝母の花に関する描写が、ほんの数行あるのだけれど、花の特徴をぴたりと言い当てていて、見事だと思う。
 
 せまい庭に、貝母の花がいちめんに咲きひろが
 ってゐる。点々と、花はうなだれて咲いてゐた。
 「よくふえましたね、」
 「これだけは、大事にして、前の家から移しま 
 した、花は、たつた五日か七日咲くために、一
 年中埋もれてね……」
  風にゆれて、つぼんだ花芯がゆらゆらゆらめ 
 くのを、わたしは、無心に眺めてゐた。
           (「貝母の花」より)

 実際、釣鐘状の貝母は、花ひらいても、つぼんだような花なのである。そして、うなだれていると言われれば、そう思えなくもない。ひっそりと恥ずかしそうで、しおらしくただ咲いている。と、書いて、この性質は貝母に限ることではなく、茶花に共通の奥ゆかしさだと思い当たる。
 ところで、貝母とはきれいな名前。なんでも地下の鱗茎が、二枚の貝が合わさったような形をしていることから名付けられたのだそうだけれど。
 けなげで、ただ咲いている貝母を見ながら、自らに問いかけてみたい。今日はじゅうぶん生きただろうか。ただ、ひたすらに。


初出 「OCS NEWS」 No.652/April 7. 2000