白玉庵のいちにち

表千家茶道教室

喫茶去

銘「喫茶去」 林竹作
筒 花押 辻常閑和尚


 先生からお茶杓をいただきました。いまから二年ほど前のことです。銘は「喫茶去」。「きっさこ」と読みます。中国、唐の時代の趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)という禅僧の言葉だそうです。
 「お茶を飲みに行こう」「お茶を飲もう」の意味だという程度には知っていました。だから、ほかの禅語にくらべて、わかりやすい。そんなふうに思っていたわたしは、しかし実際には、何にもわかっていないに等しかったのです。
 ある日のことです。わたしは、臨済宗相国寺派管長、有馬頼底氏の言葉に出会います。
  
  一番普通の人間で一番基本的なことは、飲ん
 だり食べたりすることなんですよ。(略)
  趙州禅師という人はこういうふうに、軽いも
 のを重く、重いものを軽く取り扱うこと、これ
 を常におっしゃったんですね。日常のさまざま
 なこと、些細なことを通して、その中に仏性を
 会得しなさいよ、ということなんです。仏教の
 教えというのは決して難しいものではない、目
 の前にあることをそのまま受け取る。それが仏
 教の本当の救いなんだよ、ということなんです
 ね。それが「喫茶去」の本当の意味合いなんで
 す。 (『禅の心 茶の心』朝日新聞社刊)



 飲んだり食べたりすること、人間の基本的な営みから学ぶことが大事なのだとする「喫茶去」の本当の意味合いを知ったとき、あらためて、先生から「喫茶去」をいただいたような気がします。
 先生は今年八十五歳になられました。栃木県の出身で、戦争が激しくなってからもお茶を習いに東京まで上京していたのだそうです。
 実家が農家だった先生は、お月謝の代わりにお米を運んだのだそうです。電車のなかでも見つからないように、帯揚げの中にお米を縫いつけてお渡しすると、先生の先生がたいそう喜んでくださったと、昨日のことのようにお話しされます。
 先生は、戦争が激しくなるまでは巣鴨に住んでいたのだそうです。いよいよ激しくなってきたので、東京を離れるにあたり、借家の庭に大事なお茶碗をいくつか埋めました。
 東京大空襲のあと、庭のあちこちは、まだ煙っていたそうです。土の中から掘り起こすと「パラパラ、パラパラ」と、両手のなかでお茶碗が一枚、二枚と崩れていきました。
「熱をもっていたお茶碗が、冷たい外気に触れて壊れちゃったのでしょうね」
 そのとき、一番下にあったお茶碗が一枚だけ助かりました。京焼きの、そのお茶碗をお稽古のときに見せてくださったことが何度かありました。その都度、先生は戦争を生き延びたお茶碗の話をしてくださいます。
 八十五歳の先生は、心臓に持病をお持ちです。
 二十年ほど前には、心筋梗塞で生死の間を彷徨われたこともあるのだそうです。その先生が、去年の十月、ふたたび心臓の病で倒れられました。
 救急車で運ばれたとき、医師から言われたのだそうです。
「ペースメーカーの手術をしますか?」
 朦朧とした意識のなかで(というのは、ご本人は答えたことすら覚えていないくらい瀕死の状態だったのです)、先生は答えました。
「すぐに手術をしてください」と。
 医師は驚いたのだそうです。普通だと、そこまではいいです、と答えるひとが多いのだとか。しかも、集中治療室のなかで、ひたすらお茶を点てる手つきをしていたという先生。
 看護師さんがお嬢さんに尋ねました。
「胸の上でしきりに右手を振っている素振りをするんです。お家では、何かなさっているんですか?」と。
 その先生が見事復活されたのは、四月の末のこと。先生からの「お稽古を始めます」の一枚のお葉書が、どんなに嬉しかったことか。
 先生にいただいた「喫茶去」。その意味合いをやっと知った弟子が一人、ここにいます。「喫茶去」の旅は、始まったばかり。

                                                                       2008年度『苑』に発表