白玉庵のいちにち

表千家茶道教室

「その日わたしは草であった」

 


その日わたしは草であった       山本かずこ



人知れず
すくすくと
ただ生い茂っていた
その日わたしは草であった

昨日は雨が降った その前もその前も雨が降った 雨量がとても多いこの地方でも 今年の雨は特別に多い だからわたしは この夏すくすくと育つことができた
(後から考えると、これが女には幸いした)

雨が降ると すべる すべる道はまた獣道でもあった 時折人間も通る 草であるわたしに日々の雨は優しかった 木々が生い茂る合間から 木漏れ日は届いていた 風もまた優しかった

そのとき小さな子供を連れた女の ゴムぞうりの音がした 獣道をピタピタと歩いてくる 土は乾かない
(後から考えると、これが女には災いした)

足を滑らせたら 谷底へと落ちる 崖の途中にわたしは生えていた 子供の手を離すと同時に わたしの手はつかまれた 咄嗟に女に手を差し出していたのだ その日わたしは草であったが 女は必死のあまり わたしを見なかった 柔らかい斜面に 足場を作り わたしを頼りに 昇っていった

その間 泣き声ひとつ立てなかった 子供から わたしは見られている、と思った わたしが指をもつ草であることを あの目でしっかと見られた、と思った

女と子供が去ったあと、風がやってきて わたしをしばし揺らしてくれた そうすることで呼吸を整えよ、と言っているかのように そのあと わたしはふつうの草に戻った



詩集『いちどにどこにでも』(ミッドナイト・プレス刊)から