白玉庵のいちにち

表千家茶道教室

「仮の宿」を読む

 立原正秋の『埋火』(うずみび)新潮文庫/には、七つの短篇が収録されている。「仮の宿」は、最初の一篇。何度読んでも、「湯文字」という言葉にどきっとする。
 わたしは「湯文字」は持たない。着物の教室でも「湯文字」という言葉を聞かない。
 だから、わたしが「湯文字」というものの存在にじかに触れるのは、この「仮の宿」のなかでしかないということになる。
 強烈な存在感を持つ「湯文字」。言葉で少なくとも読者(わたし)を釘付けにできる「湯文字」は、読者(わたし)を一瞬でも支配する力を持つ。
 「湯文字」と、よく似ている使われ方をするものが「裾よけ」。しかし「裾よけ」では、読者(わたし)は支配されない。
 「湯文字」なら、まず湯上がりの女性を連想するし、旅の宿(これは、日常の旅も含めて)をも連想する。


 読者(わたし)を支配することができる「湯文字」が誰かから贈られる。その時点で、すでに物語は後戻りできない。
 この「仮の宿」では、新橋の芸者であった女性が、二年間つきあった男から「湯文字」を贈られたところから始まる(しかも、朱色の袷と単が五枚ずつ)。
 女性は芸者をやめて、半年前から結婚生活を送っている。
  その女性の元に贈られる「湯文字」の意味とは。いったい、どのように解釈すればよいのだろう。
  読者(わたし)もまた、女性と同じように解釈に苦しむ。しかし、女性はいつのまにか解釈を放棄しているのがわかる。
「いまごろなぜ…。窓の外では水っぽい雪がななめに落ちていた。焼棒杭に火がついたらどうするだろう……。さきのことは解らなかったが、雪の空を朱色の湯文字が舞っているのを視た。朱と白の交錯に、ああ、これでは死んでしまう、と声を嚥んだ。」
 やがて女性は、死なないための行動を起こすのだろう。そして、その時期は、焼棒杭がどこかにいってしまわないうちに、のはず。
 女性はやがて「湯文字」から解放されて、男の元に戻るが、そのとき、読者(わたし)には、「湯文字」の言葉が残される。