その日は、頭のなかがいっぱいでした。
わたしは成増からお気に入りのコースを通るバスに乗っていつもの停留所で降りました。
降りたあと、何かが足りないと思いました。何が足りないかは、すぐにわかりました。さっき買ったはずのみかんやお豆腐の入った袋をわたしは持っていないのです。
まるで、存在しないもののように(降りる方向の左側に置いてあったはずなので、それをわざわざ避けるようにして降りたとしか思えませんが、実際目に入らなかったのです)バスの座席に置いたまま、わたしは下車。
わたしは、そのまま自宅のマンションの前を素通りして、タクシーを探しました。いまからあのバスが成増駅に戻る(循環型なのです)時間はわずか10分くらいだと思います。それまでにわたしも成増に戻りたい。わたしは、タクシーに乗りました。金額にすれば800円から900円の買い物です。タクシー料金は710円です。それから、バス代を考えると、取りに行かないほうがいいかもしれないということについては、ちらっとは考えましたが、深くは考えませんでした。とにかく、間に合ってほしいという気持ちでした。
成増駅に着くと、すでにバスは到着していました。新しいお客さんも乗り込んでいます。わたしは、このバスだと思って、すぐに乗り込み、運転席に直行。
「あのぅ」
運転手さんは、留守でした。
わたしは、運転手さんを探しました。運転手さんは、西友のほうから歩いて来ていました。煙草とかトイレだったのでしょうか。
わたしは、運転手さんに「さっき、忘れ物をした者です」といって、「おみかんとか」と中身を言いました。運転席の下にその買い物袋はありました。
何事もなかったかのように、バスはまた成増駅を出発しました。
そして、さっきと同じようにわたしは下車。
バスは何事もなかったかのように、また、成増駅に向かって走ってゆきました。
わたしは、その後ろ姿を見送りました。
帰ってから、その間にあったことを思い出しました。とにかくバスに追いついてよかったという安堵感で、みかんを食べました。愛媛みかんはおいしかったですが、咄嗟にバスをタクシーで追いかけた自分の行動については、判断停止です。ただ、こんな経験は一度でじゅうぶん。タクシーでみかんを追いかけるなんて…。